Study on Iboshi Hokuto(違星 北斗)


 アイヌの詩人一違星北斗(19021929短歌と俳句


(2003年10月、UCLAロングビーチ校で開かれ
たHaiku Pacific Rimで違星北斗について講演)

違星北斗の略歴
 アイヌの詩人違星北斗の27年の生涯を簡単に紹介します。1904年のセント・ルイスで開催された万博の2年前、190211日に、北海道のアイヌの村、余市に生まれました。違星という非常に珍しい名字は、祖父、万次郎が考えました。曽祖父、伊古武礼喜(イコンリキ)伝来の家紋が※で、これを「違い」に「星」と見たてて、イボシと読みました。北斗はこの経緯を、「この急にこしらえた姓名は、我が祖先伝来の記号に源を発しているのが面白い」と『違星北斗遭稿コタン』で楽しげに述べています。
 違星北斗というのはペンネームで、本名は違星滝次郎。小学校を卒業後、鰊漁場や、木材人夫、鉱山労働者で生計を立てますが、
16歳のとき結核を患います。結核は当時不治の病でした。23歳のとき、東京府市場協会の事務員に雇われ、一年半を東京で過ごします。東京での暮らしは、見聞する物すべてが驚異であったそうです。
 しかし、彼は自分がアイヌだからと人々に珍しがられる東京での生活に疑問をもち、また、アイヌ同胞の自立に、その身をささげることが使命だと思い、北海道へ戻ります。そのころの気持ちを、「アイヌの研究はアイヌの手でやりたい。アイヌの復興はアイヌがしなくてはならないという強い希望に唆され、嬉しい東京を後にして再びコタンの人となった。今もアイヌの為に、アイヌと云う言葉の持つ悪い概念を一蹴しようと、『私はアイヌだ!』と逆宣伝的に叫びながら、淋しい元気を出して闘い続けている」(『違星北斗遺稿コタン』草風館1984)と、述べています。
 その後、アイヌとしての自己の地位に深く苦悩し、民族復興の使命を痛感し、アイヌの地位向上のための運動をしながら短歌、俳句を書き、機関誌『コタン』を創刊しますが、志半ばで1929年、27歳で死去します。
■違星北斗の短歌
 彼が英国人宣教師ジョン・バチエラーJohn Batchelor1854~1944)の手伝いをして、一時期過ごした日高の平取町(びらとり) 二風谷小学校の校庭に歌碑が立てられました。しかしアイヌの歌碑を立てることに、同意しない人もあり、歌碑ができたのは北斗没後39年を経た1968年のことでした。歌碑には、北斗と親交のあったアイヌ学者の金田一京助の書で、アイヌの自然やアイヌの生活の切実な願いを歌った北斗の短歌二首が刻まれました。
沙流川は/昨日の雨で/水にごり
   コタンの昔/囁きつ行く
 
平取に/浴場一つ/ほしいもの
   金があったら/たてたいものを
泥酔の/アイヌを見れば/我ながら
  義憤も消えて/憎しみの湧く
 
岸は埋め/川には橋が/かかるとも
  アイヌの家の/朽ちるがいたまし
■違星北斗の俳句
 俳句の描写には、短歌のような直情、激情の迸りは見られず、むしろ客観的に物事を観察し、有季定型の伝統的な形式の俳句を作っています。彼の俳句描写の冷静さは、感情を客観視する俳句形式に負うと考えられますが、短歌においては自己の感情を爆発させ、一方で冷静な感情を俳句に表現するという、彼の文学的バランス感覚も見逃せません。短歌と俳句の表現形式の違いで、北斗の文学は重層化していると言えるでしょう。彼にとっては短歌形式も俳句形式も文学表現の重要な表現形式であったのです。自己の内面を形式の異なる文学表現として昇華させました。北海道の自然やアイヌの暮らし、アイヌの生活を好んで描写した俳句には、その擬縮された言葉のなかに北斗の細やかな観察が見出されます。
春浅き/鰊の浦や/雪五尺
 
崖道を/すぎてここにも/干鰊
 
蛙鳴く/コタンは暮れて/雨しきり
 
伝説の/沼に淋しき/蛙かな
 
大熊に/毒矢(ぶし)を向けて/忍びけり
 
枯れ葉みな/ いだかれんそして/ 地に還る
(『吟遊』第172003 掲載)



『違星北斗 遺稿 コタン』草風館、1984年1月