Study on Kato Somo(加藤 素毛)

日本初の外国(外遊)俳句作者

――加藤素毛(万延元年遣米使節随行員)の見た亜米利加と周海――



         素毛の肖像写真(短冊、筆を持っている)(岐阜県歴史資料館)


(木版画「萬里廼空」(岐阜県歴史資料館)

亜墨利加華盛頓の都に在りし頃
亜人風船といへるものに御して蒼天に
飛揺せしを見て帰朝の後其形ちを
真宝老師の筆に乞ひつたなき一句を
のせて海内の知己に贈るになん」

月ならて 風船たかし 夕まくれ
          斐太  素毛


                         

ウォルト・ホイットマン(Walt Whitman)は、万延元年(1860)6月17日(邦暦4.28以下邦暦)にニューヨークに着いた幕府の遣米使節一行の壮麗な行列に接し、「若き自由人よ」1)と題する詩で彼の感動を表現した。ホイットマンを魅了した一行は、日米修好通商条約批准書交換の任務を負った正使、外国奉行兼神奈川奉行の新見豊前守正興、副使に外国奉行兼箱館奉行・神奈川奉行の村垣淡路守範正、監察に小栗豊後守忠順の三使ら総勢77人の使節団であった。
使節団一行の旅は、勝海舟が艦長の咸臨丸を随行して、万延元年2月9日(1.18)品川沖で迎船ポーハタン号(ポウアタン号ともいう)(the Powhatan)に乗り込み、1110日(9.28)品川に帰着の9ヶ月間におよぶ異国の旅であった。
品川沖を出帆後、ハワイ3月6日(2.14)、サンフランシスコ3月30日(3.9)到着、パナマ地峡を鉄道で渡り、軍艦ロアノーク号(the Roanoke)に乗り換え、首府ワシントン5月15日(閏3.25)に到着する。518日(閏3.28)使節一行は、大統領官邸ホワイトハウスで大統領ジェームズ・ブカナン(James Buchanan)に謁見する。523日(4.3)、国務長官ルイス・カス(Lewis Cass)との間で日米修好通商条約批准書の交換を行い大役を果たした。その後はボルチモア、フィラデルフィア、ニューヨークなどを見物し、630日(5.12)に送還船ナイアガラ号(the Niagara)に乗船し、翌日7月1日(5.13)にニューヨーク港を出帆する。船は南アフリカ喜望峰をまわり、インド洋、ジャワ、香港を経て、無事品川に帰港した。この間じつに周海3万里であった。
使節一行にとって、その旅は長い鎖国から後の衝撃的な異文化体験であった。異国文化への驚愕は、正使をはじめ随行員の日記、回想録、現地の新聞記事、スケッチなどからうかがい知ることができる。また1960年、日米修好通商条約100周年を記念して出版された『万延元年遣米使節史料集成全7巻』(風間書房 昭和35年)には、遣米使節関連の詳細な報告がなされている。その第三巻には、本稿で取り上げる加藤素毛の談・水野正信編『二夜語』が収められている。
使節随行員の中に、下級の地位である賄い方即ち料理人として加わった飛騨・美濃の境界に位置する金山下原出身の加藤素毛雅英(文政8−明治12:1825-1879)、当時36歳がいた。名字帯刀を許された飛騨の五大老の大庄屋に生まれた素毛は、文雅の士として育った。とりわけ漢詩、蘭の絵画、和歌、俳句に秀でていたため、彼は亜米利加滞在中や周海中に詳細な日記や絵を記し、帰朝後、「周海日記」、「亜行航海日記」「亜行周海略日記」「喜名帳」「日記」など、彼の日記を基にした加藤素毛の談・水野正信編『二夜語』や、周海での詩歌をまとめた「航海詩文」を著わした。
 (以下、日本英学史学会関西支部『関西英学史研究』第2号、2006に掲載)